CK3 AAR 聖イシュトヴァーンの宝冠 2

Linutikaの治世

"カパラチア山脈を越えて"のCBをつかって戦争に勝利すると、敵対領主のパンノニア王国のde jure領域を全て手に入れることができますが、その代わり、それまでもっていたパンノニア王国のde jure外の領土をすべて失ってしまいます。

こんな具合です。

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でもまあ、一応、ちょっとしたハンガリー王国ですね。

アルコール中毒から癌のコンボで開祖アールパートが死去すると、後継者となったのは彼の長男であるリヌチカLinutikaでした。
リヌチカは父アールパートに倣って軍事教育をうけていましたが、臆病な性格で、軍事特性もぱっとしなかったそうです。

しかしリヌチカの治世は戦争に次ぐ戦争でした。
ざっと数えただけでリヌチカの治世につぎのような戦争が勃発しています。

・ゼムプレムZemplemへの侵略戦争(890年)
モルダヴィアMoldaviaからの防衛戦争(892年)
・下ポーランドLesser Polandへの侵略戦争(895年)
スラヴォニアSlavoniaからの防衛戦争(904年)
・下シレジアLesser Silesiaからの防衛戦争(911年)
・ギョルGyorへの侵略戦争(918年)

このすべての戦争にリヌチカは勝利、もしくは白紙和平を締結することに成功しています。

いちばんの難関だったのは892年に勃発したモルダヴィアからの防衛戦争で、

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この戦争に負ければハンガリー王位を失い、しかも敵兵力は二倍近いという危機でしたが、リヌチカは自慢の弓騎兵と契約した傭兵団の奮闘によってこのモルダヴィアの侵略を白紙和平で退けています。
いずれにせよリヌチカの治世は幾多の勝利に彩られ、領土も増加しました。彼は悪くない君主だったと言えるでしょう。

923年、リヌチカは父と同じように酒の飲みすぎで死去しました。享年61。
リヌチカには四人の男子がいましたが、後継者は、長男の息子、つまりリヌチカの直系の孫である、カプロンKaplonが継承しました。
カプロンは僅か8歳の子どもで、これが誕生して間もないハンガリー王国に動乱の火種をまくことになったのです。

(続く)